LOGIN「ないよ」瑛介はきっぱりと言った。「あなたを信じていないなんてことはない」弥生はすぐに言い返した。「嘘。もし本当に信じてたなら、そんなに早く次の言葉を続けたりしない。明らかに、私の答えを聞きたくなかっただけでしょ」その一言で、瑛介の心の内をすべて見透かされたようだった。彼は薄い唇を引き結び、しばらく沈黙した。もう言い訳する言葉も見つからない。そんな彼を見て、弥生は小さくため息をついた。「......まあいいわ。どうせ聞く気もなさそうだし。中に入ろ」そう言って手を放し、歩き出した。だが二歩も進まないうちに、腕をぐっと引かれた。「答えを教えてくれるんじゃなかったのか?」瑛介が低く聞いた。弥生は顔をそむけたまま答える。「だって、知りたくないんでしょ?」「誰がそんなこと言った?」彼の手の力が少し強まる。痛くはないが、逃れられないほどの強さ。「言えよ。言わないなら、中には入れない」「......あなたって、ほんと子どもみたい」弥生は唇を噛みしめ、少し俯いたあと静かに言った。「この前、もう気持ちは伝えたでしょ。その答え、もう分かってるはず」瑛介は穏やかに笑みを浮かべる。「分かってるつもりなんだけどな。でも、どうもはっきりしない。たぶん僕の中に安心が足りないんだ。もう一度、あなたの口から確かめたい」「安心が......足りない?」弥生は目を丸くした。「あなたが?嘘でしょ」「うん」「でも普通安心感がないのって、女の方じゃない?」「男だってそうなるさ。強がってるだけで、脆いところもある」彼は少し笑って続けた。「あの時、あなたをずっと閉じ込めてた。今こうしてやっとまた会えたんだ。安心できない方が自然だろ?」弥生は目を瞬かせたあと、少し肩をすくめて笑った。「......そうね、確かにそうかも」そしてまっすぐに彼を見つめた。「じゃあ、もう一度ちゃんと言うわ。記憶を失う前、あなたのことを嫌ってたかどうかは分からない。けど、今の私は違う。私はあなたを嫌いじゃない。むしろ......大切に思ってる」弥生はそっと彼の手を握り返した。「だから、もうそんな考えをしないで」瑛介はその言葉に苦笑した。「そうか。まさにその通りだな」愛するがゆえに憂う。かつて誰かがそ
瑛介はテーブルの上の皿に目をやった。弥生の食欲はまだ控えめだったが、それでも以前よりずっといい。睡眠もとれているのだろう。顔色にはもう、あの帰国直後の青白さはなく、かすかに血の気が戻っていた。「もういい、無理して食べなくていい。夜にまた何か食べよう」「うん」瑛介は同行していたスタッフに会計を任せ、弥生と共にレストランを出た。エレベーターに乗りながら、ふと視線を横に向けた。「これから向かうけど......」彼は少し間を置いて言葉を続けた。「彼はもしかしたら、あなたに会いたくないかもしれない」弥生の足が止まった。「......会いたくない?」あの人は、かつて彼女を閉じ込めようとしたほど執着していたはずだ。今は会いたくない?まさか、拘束されているの?それとも、もう、自由の身なのだろうか?次々と浮かぶ不安な想像を、瑛介の手が断ち切った。彼は彼女の手首を静かに握り、低く言った。「余計なこと考えるな。たとえ彼が会いたくないとしても、あなたが見に行くことはできる。行けば分かるさ。彼がどういう気持ちなのか」「......うん」到着したのは、想像していたよりずっと寂しい場所だった。都心から遠く離れた山のふもと。霧に包まれたような静けさの中、ぽつんと大きな屋敷が建っている。「まさか、こんな場所に家を建てるなんて......」弥生は小声でつぶやいた。周囲には人影もない。こんな場所で暮らして、寂しくないのだろうかと思った瞬間、瑛介がその心の動きを読んだように説明を添えた。「ここは、あいつの家の所有地だ」「弘次の家?」「そう」環境の異様さに戸惑いながらも、弥生の胸に少しだけ安堵が広がった。少なくとも、拘置所じゃないのね......その時、瑛介が穏やかな声で聞いた。「ここに彼がいるって聞いて、驚いたか?」「......正直、少し。てっきり......」彼女は言いかけて、唇を噛んだ。不用意な言葉で彼を傷つけたくなかった。瑛介は彼女の沈黙の意味を察したように笑みを浮かべた。「僕が通報したと思ったか?」弥生の指先が小さく震えた。「もし本当に通報して、彼がここにいなかったら、あなたは、僕を恨んだか?」その問いのあと、瑛介はすぐに続け
弥生は、医師から「薬を一日二回にしてもいい」と聞くと、出発前にすぐ瑛介の包帯を解き、新しい薬を塗り直した。包帯を外した瞬間、彼女は思わず息をのんだ。傷口は初めて見た時よりもずっときれいにふさがっており、炎症もほとんど引いていた。「......本当に良くなってる」弥生の目にうっすらと安堵の色が浮かんだ。その様子を、瑛介は黙って見つめていた。彼女の真剣なまなざしも、指先の慎重な動きも、すべてが彼の視線に映り込んだ。「どう?僕、嘘ついてなかっただろ?」軽く冗談めかして言うと、弥生は彼を横目でにらんだ。「うん」「でも、まだ油断は禁物よ。調子に乗ったらまた傷が開くかもしれない。ちゃんと薬を塗って、ちゃんと休んで。後遺症が残ったら大変なんだから」弥生は手際よく包帯を巻き直し、きゅっと留めて言った。「......はい、これで終わり」「うん。約束する。ちゃんと養生する」手当てが終わると、ふたりは再び車に乗り込んだ。外はまだ朝靄がかかっており、遠くの景色が淡く霞んでいる。瑛介は後部座席に置いてあった薄い毛布を取り、弥生の肩にそっとかけた。「ここから数時間はかかる。昨日あまり眠れてないだろ?少し寝てろ。着いたら起こす」最初、弥生は「平気」と言いかけたが、朝早く起きた疲れがじわじわと押し寄せ、結局のところ静かにうなずいた。「......じゃあ、ちょっとだけ」まぶたが落ちるまで、ほんの数分。車の揺れに合わせて、弥生の呼吸が穏やかに整っていった。どれくらい時間が経ったのだろう。目を覚ました弥生が最初に感じたのは、車内に差し込む明るい光。ぼんやりと視線を上げると、隣には静かにこちらを見ている瑛介の姿があった。「......着いたの?」「うん。ちゃんと眠れたか?もう少し寝てもいいぞ」そのとき弥生は運転席に誰もいないことに気づいた。どうやら、彼が起こさないまま車はすでに到着していたらしい。「えっ......もう着いてたの?なんで起こしてくれなかったの?」彼女は慌ててスマホを見た。すでに昼を過ぎていた。出発時刻から考えると、到着してからさらに一時間ほど経っている計算になる。「あなた......」「だって、気持ちよさそうに寝てたから」瑛介は微笑んだ。「起こすの
弥生は相変わらず、瑛介の薬の交換を引き受けていた。昼間はずっと車で移動していたせいで、二人ともすっかり疲れ切っていた。薬の交換を終えると、瑛介は外へ出て打ち合わせに向かい、およそ十数分ほどで戻ってきた。部屋に入ると、弥生はベッドの端に突っ伏したまま、静かに眠っていた。ホテルの柔らかな照明が、彼女の白い頬をやさしく照らしている。その寝顔を見た瑛介の胸の奥が、ふっとやわらかくなった。そっと抱き上げてベッドに寝かせようと手を伸ばしたとき、彼は弥生が必死に自分の傷を包帯で巻き直してくれた姿を思い出した。あのとき、彼女はどれだけ神経を使い、どれだけ自分の痛みに怯えていたか。......これ以上、心配をかけるのはやめよう。そう思い直し、瑛介は彼女を横抱きするのをやめた。かわりに、彼女の靴を脱がせ、背を支えながらそっとベッドの中央に移動させた。枕を整え、掛け布団をきちんとかけてやると、小さく囁いた。「おやすみ」弥生の丁寧な手当てと気遣いのおかげで、瑛介の傷の回復は驚くほど早かった。以前は朝目覚めるたびに鈍い痛みがあったが、この日の朝はそれがほとんどなかった。シャツの襟をめくって傷口を覗き込み、彼は思わず口元をほころばせた。なるほどな。彼女が安静にしてろって言ったのは正しかった。そう思っていると、隣で寝返りを打つ気配がした。視線を向けると、弥生がゆっくりとまぶたを開けた。眠たげな目が彼の瞳をとらえた。「......傷、どう?少しはよくなった?」目を覚まして最初の言葉がそれだった。瑛介の胸に、温かいものがじんわりと広がった。「ああ、ずいぶん良くなった。君のおかげだ」弥生は半信半疑で眉をひそめ、身を起こすとそのまま彼のシャツを引っ張って中を覗き込んだ。彼の手が一瞬止まった。「......包帯してあるから、見えないぞ」見えないと分かっていながら、弥生はさらに布の隙間を覗き込み、顔を上げて問い詰める。「見えないのに、どうして良くなったって言えるの?」「感覚だ」「感覚?」「うん。昨日までは起きるとズキズキしてたけど、今日は痛くない」「なるほどね......」弥生は腕を組み、少し考え込むように視線を落とした。「でもさ、先生は一日一回でいいって言ってたけど、本当
瑛介の声には、どこか笑いが滲んでいた。弥生は彼がからかっていると分かっていながらも、思わず言い返したくなった。「別に急いでないわよ」「うん、分かってる。弥生は急いでない」この人、なんでこんなに腹が立つ笑い方をするのよ。弥生は少しむっとして、仕返しのつもりで彼の腰をつねった。もちろん、傷口を避けて。「ん......」軽くつねっただけなのに、瑛介は低く唸るような声を漏らした。その顔が一瞬で変わった。次の瞬間、彼は反射的に彼女の手首を掴み、低くかすれた声で言った。「......やめろ」弥生はぎょっとして、まさか傷に触れたかと思った。でも、その表情はどう見ても苦しんでいるというより、むしろ......気持ちよさそうに見えた。たったそれだけの反応に、弥生は言葉を失った。そんな彼女の混乱をよそに、瑛介はさらに追い打ちをかけた。「これ以上つねったら、車の中で何するか分からないぞ」弥生は数秒間、固まったあと、顔を真っ赤にして手を振りほどいた。「変態!」瑛介は小さく笑い、唇の端を上げた。「忘れてるかもしれないけど、僕たち夫婦だぞ。少しくらい変態でも許されるだろ?「でも、今の君はまだ体が本調子じゃない。もう少し元気になってからだな」そう言って彼は、力を込めて弥生を抱き寄せ、耳もとで囁いた。その息がふっとかかり、弥生の耳まで熱くなった。「......まずは、自分の傷を治してから言いなさいよ」瑛介は「なるほど」と言わんばかりに頷いた。「つまり、僕の傷が治ったらしてもいいってことか?」「いつそんなこと言ったのよ!」「今言ったじゃないか。治してからって」「それは違うってば!」弥生はこれ以上口で勝てないと悟り、ぷいと顔をそむけた。「もう行かない。勝手に行けば?」慌てた瑛介がすぐに腕を伸ばし、彼女を抱き戻した。「ほら、拗ねるなよ」低く笑いながら、額にそっとキスを落とした。「......さ、行こう。車に乗って」弥生は頬を染めたまま彼をにらんだが、彼がもう冗談をやめたと分かると、静かに頷いた。「今から出発?」「じゃないと、いつ行くんだ?」「でも、あなたの傷......安静にしてなきゃ」「うん。だから二時間走ったらホテルで一泊する」その言葉に
だから今回、弥生がまた出かけると聞いたひなのは、すぐに不安になった。また長い間、ママに会えなくなるのではないかという思いが胸いっぱいに広がったのだ。血のつながりというのは不思議なもので、たとえ記憶を失っていても、弥生の心と身体は母親としての本能を覚えていた。娘の怯えた声を聞いた瞬間、彼女の胸の奥はふっとやわらかく溶けていった。弥生はそっとしゃがみこみ、彼女の頭を優しく撫でた。「ママはちょっとだけお出かけするの。すぐに帰ってくるからね」しかし、今回のひなのは簡単に信じる様子はなかった。「おばあちゃんも前にそう言ったのに、ママ、全然帰ってこなかったよ?今度はほんとに何日なの?一日?二日?」言いながら、ひなのは小さな指を一本ずつ折って数えはじめた。弥生は言葉を詰まらせた。......この子、すっかり学習してるわね。確かに、前回は「少しの間」と言ったきり長い別れになってしまった。でも今回は、自分でもどれくらいかかるのか正確には分からない。すべて瑛介の段取り次第だった。弥生は助けを求めるように彼の方を見た。瑛介は二人のやり取りを静かに見守っていたが、視線が合うとそっと歩み寄ってきた。そして彼も膝をつき、ひなのと同じ目線にしゃがんだ。大きな手が小さな頭の上に乗った。「早ければ三日、遅くても五日で帰ってくる。いいか?」「......五日?じゃあ、ママは遅くても五日後には帰ってくるの?」「そうだ」それでも、ひなのはまだ疑いの目を向けていた。「ほんと?ひなののこと、だまさない?」その真っすぐな視線に、瑛介は思わず笑い、指先で娘の鼻を軽くつついた。「だまさないよ。もしだましたら、パパが家でワンちゃんになって、ひなのの馬になってあげる」弥生は思わず目を見開いた。背後で聞いていた瑛介の母もぽかんとした顔で固まった。うちの息子が......ワンちゃんになるって?彼女は長い結婚生活の中で、そんな言葉を夫から聞いたことはなかった。まあ、無理もない。うちは息子しかいなかったのだ。娘がいれば、瑛介もこうなるのかもしれない。「ほんと?じゃあ約束ね!」ひなのは満足そうに笑い、瑛介にぎゅっと抱きついた。「約束だ。さ、もう遅い。おばあちゃんと一緒に休もう」瑛介が優しく頭を撫